もう少しうまくできなかったものか
大坂冬の陣、夏の陣で、
徳川家康が豊臣家を滅ぼします。
関ヶ原の戦から大阪の陣までの
経緯を見ていると、
家康の試合巧者ぶりが際立ちます。
方広寺鐘銘事件で嫌らしい
難癖(にみえる)をつけて、
大坂の陣に臨む大義名分を
得ていること、
野球で例えるならば、
フォアボールのランナーを
バントや盗塁で進塁させて、
スクイズで得点する・・・
ヒットなしで得点すような
いやらしさ・・・でしょうか。
家康の心中は、
徳川家の体制を盤石に
することであり、
そのためには、
豊臣家を歯向かえないようにする、
できれば豊臣家滅亡を
家康が存命の間にやり遂げることを
考えていたことでしょう。
ただ、この時の情勢は、
豊臣秀頼の存在感と
まだ豊臣恩顧の大名は全国に
存在するために、
やり方を間違えると、
徳川の体制が崩れることもあると
思っていたことでしょう。
特に家康が死んだ後、
秀忠で豊臣家を滅亡させることは
できないと思って、
家康自身で豊臣家滅亡まで
やり遂げる決意だったのでしょう。
だから、方広寺鐘銘事件のような、
重箱の隅をつついて
大きなこととするようなことを
やったのでしょう。
この方広寺鐘銘事件は、
大坂の陣を引き起こす大義名分となり、
豊臣家を滅亡させる
きかっけとなったのは
間違いありません。
家康にとって、
きっかけが欲しかったのであり、
そこに豊臣家自ら大義名分を
与えてしまったという事になるでしょう。
この時の豊臣家は、
淀殿が仕切っている状況で、
大野治長や片桐勝元らの忠臣ではあるが、
淀殿を仕切って導けるほどの者では
なかったように思えます。
やはり淀殿の視野の狭さや
堅牢な大坂城があれば、
負けるはずがないとの
驕りが大坂の陣を引き寄せたと思います。
しかし、裏をかえせば、
淀殿がうまく立ち回り、
人の意見を聞ける人であるならば、
豊臣家が存続する可能性もあったことでしょう。
ビジネスの世界でも、
世界に冠たる大企業が、
無残にも崩れていく事例を
見ることがあります。
その一例として東芝です。
総合電機メーカーとして
バブル期には一世を風靡しましたが、
その後の粉飾決算、
原子力政策、株主対策等
うち手がことごとく後手を
踏んでいるように思えます。
上り調子の企業では
起こりにくいことですが、
ある程度の実績を踏まえて
踊り場にいる状況においては、
そのうち手によっては、
大いに変わって来るでしょう。
余力のある時の賢明な打ち手・・・・。
難しいですが、勝ち残るために必須です。