平安時代の鎖国政策
鎖国政策といえば、
江戸時代の3代将軍の徳川家光の
鎖国政策を思い出します。
しかし、平安藤原道長政権時も、
明確には鎖国とは言っていませんが、
外国(主に宋)との貿易は、
博多に限るとしています。
一方で江戸時代の鎖国は、
長崎に限るとしていました。
平安期は、
大宰府が対外国に対する
出先機関として機能しており、
大宰府に通じている博多を
唯一の港とするのは当然の選択といえます。
長崎が脚光を浴びてくるのは
戦国期からだと思います。
戦国期には、九州一円に戦国大名が
存在し島津や大友、竜造寺等の
九州の戦国大名も出て来て、
ポルトガルから鉄砲が伝来し、
宣教師が長崎にも入って来て、
大友宗麟、大村純忠等のキリシタン大名が
生まれてくる中で長崎の重要性が増し。
江戸時代には、貿易は長崎に限るという
鎖国政策となりました。
平安期の大宰府は、
江戸期の長崎よりも、
心理的には圧倒的に遠く
地の果てという感覚だったと思います。
藤原伊周、隆家兄弟が左遷と
言われた地が大宰府ということですが、
江戸期には、博多は筑前福岡藩の
大大名黒田家の本拠ですから、
僻地ではないですよね。
「光る君へ」では、
越前敦賀にて、
宋が貿易を強く望んでおり、
藤原政権が博多に行くように言っても、
宋人がなかなか敦賀から離れようとしない・・・。
このような時に
まひろの父・為時が越前守として
赴任することになり、
道長から宋人を博多に行かせること
をミッションとして与えられての赴任でした。
江戸時代に鎖国した頃は、
ポルトガルや、スペイン、オランダという
ヨーロッパの国が大挙日本の回りに来ており、
当時の中国明、朝鮮も貿易をしていましたが、
ヨーロッパ勢のほうが多く来ていたようです。
一方で、平安期は貿易するならば、
圧倒的に中国であり、
少し朝鮮といったところでしょうか。
ですから、貿易港は日本海側になりますし、
京の都に近い貿易港であれば、
敦賀になるのも、地理的には納得です。
敦賀を宋に開くことは、
敦賀があまりに京に近いために、
宋が攻め入った際には、
ひとたまりもないと道長は言っています。
道長の藤原氏の貿易の利益を独占するために
博多に絞ることを優先する
意思があったと考えると。
当然の判断だと思います。
一条天皇が、敦賀の貿易は、
朝廷が仕切るように言っていますが、
そんなことされては、
道長は藤原の貿易利益独占が
できなくなるので、
なんとしても阻止することになります。
海外貿易は、
莫大な利益が得られる可能性が
高いのですが、
幕末の黒船のように、
軍事的に外国が攻める口実を与えたり、
豊臣秀吉政権のように
特にキリスト教の布教が、
問題になったりします。
そこで、
江戸時代の徳川家光のように
鎖国政策をすれば、
外国の侵略や、
キリスト教の布教も抑えられ、
長崎に絞った貿易を
幕府が独占することにより、
利益を上げることが出来、
他の大名に経済的に利益を
出させないことが、
徳川統治には重要でした。
鎖国することは、
時の為政者にとって、
当地を安定させる
かつ貿易を独占することによるメリットも
享受できるので、行われますが、
時間が経つと鎖国による情報のなさによる、
進歩の遅れるという致命的な
デメリットをもたらします。
特にビジネスにおいて
鎖国することは、
衰退をまねくことが多いと思っています。
20年ぐらい前から、
盛んに中国へ出る企業が多くありました。
発展途上の中国においては、
苦労もたくさんあったと思いますが、
成果も得られた企業も
多かったのでと思います。
現在の中国は、
危険ですよね。
急いで撤収する時期にあります。
ビジネスにおいては、
開国と鎖国を臨機応変に
気を見て敏に行う必要があり、
大きな利益も得ますが、
なかなか大変なフェードアウトを
しなければならないかもしれません。
一方で、海外に出たほうがいいと
の判断をする中で、
まったく動けずに結果的に
海外に出ることができずに、
消極的鎖国となれば、
ますますジリ貧となり、
座して死を待つことにもつながります。
特に海外進出は、
経験したことのない
経営者には、果てしなく無謀な行為に
見えるかもしれませんが、
踏み出してみる勇気は、
必要だと実感しています。