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定年起業を歴史に学ぶ㉜ベクトルがあってないと・・・

ベクトルがあってないと・・・

 

関ヶ原の戦いの勝敗を分けた理由は、

いくつもありますよね。小早川が裏切ったから、

吉川が動かなかったから、

三成の右腕の島左近が早くに打ち取られた・・・

大なり小なりいろいろあるでしょう。

でも東軍と西軍の最も大きな差といえば、

TOPの差にあると思います。

 

この関ヶ原の戦いは、

家康VS三成の戦いとなっていますが、

西軍の正式なTOPは、毛利輝元です。

三成は、西軍のTOPではありません。

では、西軍のTOPの毛利輝元が、

TOPと言われず、

石田三成が実質のTOPと言われるのか?

それは、毛利輝元の関ヶ原の戦いに至る

家康との戦いに、本気でなかったという事です。

 

仮に毛利輝元が三成の家康征伐に傾倒し、

本気で関ヶ原の合戦に臨んだとしたならば

東軍の勝利があったのか?

南宮山に陣取った毛利本隊は、

毛利一門の吉川が動かないために

南宮山を動けなかったとも言われています。

もし、毛利・吉川連合で東軍の背後をつけば、

挟み撃ちとなり、

東軍は容易に壊滅したと思います。

 

実際は、吉川広家が、

家康に内通していた吉川が動かず、

毛利本隊を動かさないから、

関ヶ原後には、毛利の中国での120万石の

所領安堵を家康と約束していた。

そして、毛利本隊を任されていた、

毛利秀元を吉川隊が動かずに

毛利の本体の参戦を阻止していたという事です。

そして、毛利一族である小早川秀明の裏切りで、

善戦していた西軍は崩れ、東軍の勝利となります。

 

毛利の重鎮である吉川広重、

毛利秀元はそれぞれの考えで

それぞれ関ヶ原の戦いを毛利家大事の思いで

動いている。

では、毛利、それだけでない西軍の総大将である、

毛利輝元は何をしていたか?

毛利輝元は、6時間で戦いが終了するとは

思っていなかったとのことで、

大阪城から動かず、

関ヶ原に参戦しなかったということです

 

皆さん、この関ヶ原の戦いにおいて、

毛利勢の動きがバラバラだと思いませんか?

関ヶ原での毛利本隊を率いる毛利秀元は、

西軍で戦う強い意志あり。

一方で毛利本隊を抑え込んだ吉川広家は、

東軍と内通していて、

毛利本隊の動きを抑え込もうとしている。

さらに小早川秀明は、

東軍、西軍のどちらにつくかを迷っている。

この状況に置いて、毛

利のガバナンスが効いていいないと

思いませんか?

圧倒的に毛利輝元のリーダーシップが

欠如していたと思います。

毛利輝元が、

リーダーシップを発揮して、

毛利は西軍!でもいいし、

毛利は西軍の顔をして東軍でもいいし、

とにかく毛利の方針を明確にしていれば、

毛利が味方したほうが勝ったことでしょう。

 

ビジネスにおいても、

TOPが優柔不断である場合このようなことが

おこる可能性があります。

TOPに難ありの場合は有力な

ブレーンがそれぞれの立場で団結して、

まとまるのですが、

TOPが、妙に権力をかざして、

ブレーンも団結できないと、

それぞれの思惑で動いてしまって、

会社に大きな穴をあけることも起きてきます。

やはりTOPの方針を明確にし、

それぞれの幹部が同じ方向に向かって

動くことが大切ですよね。

 

関ヶ原の戦い後は、毛利輝元が西軍大将として、

動いていた書状が出て来て、

吉川広家が約束を取り付けた

毛利120万石安堵が保護にされ、

長門・周防30万石に減封となりました。

皆毛利家が大事と思っていたのに、

方向がバラバラになったばっかりに

このような結末になりました。で

も、その250年後にこの時の恨みを持つ

長州に徳川が倒されることになるとは・・・。

 

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ナレッジコンサルティング
プロフィール 🔶大学卒業後、東証一部上場企業に就職。その後親族の経営している会社に入社。33歳の時、取締役としてその会社の倒産を経験。同族企業としての弱点が招いた倒産であったと自覚する。倒産後の従業員救済のために新会社を設立し、再度、今までの顧客からの継続受注を勝ち取ることに成功し、多くの従業員の雇用を確保できることとなった。その後サラリーマンに転職し、中堅企業の会社役員となり、経営企画及び営業を管掌する取締役として、48億円の売り上げを250億円の売り上げまで拡大させた。 ●新規開拓営業代行のための経営コンサルタント ●同族企業の社長継承のための経営コンサルタント ●経営者の寄り添い、指針になる経営コンサルタント ●新入社員のコストで導入できる社外取締役 ●定年起業コンサルタント