源氏が三代で滅び、
その後北条の執権政治が
はじまります。
将軍が四代目以降いたの?
いなかったの?
と言えば、
しっかりおりました。
こんにちは
定年起業コンサルタントのtomoshinオフィスです。
源氏のあとの将軍は誰?
四代将軍で元服して
藤原頼経、
頼経の子の頼嗣五代将軍。
六代将軍は後嵯峨上皇の皇子で宗尊親王、
七代は宗尊親王の子で惟康親王。
八代は後深草上皇の皇子で久明親王、
最後の九代は久明親王の子で守邦親王に。
一~三代が源氏将軍、
四・五代は藤原将軍(摂家将軍とも)、
六~九代は親王将軍と呼びます。
4代以降もしっかりと
将軍が存在したんですね。
中学でも、高校でも
日本史の授業では習ってないぞっと。
なぜ北条が将軍にならなかったのか?
ただ不思議なのは、
鎌倉幕府で
執権として君臨する
北条がなぜ将軍に
ならなかったのか?
ということです。
1192年「いい国作ろう鎌倉幕府」と
かの有名な語呂合わせで、
鎌倉幕府を起こし
源頼朝が征夷大将軍になった
と覚えました。
源氏が三代で滅び、
北条が執権という形で
鎌倉幕府をおさめることとなりました。
鎌倉時代の大きな
トピックスとして
2度も元寇があって、
北条時宗が当時の日本をまとめ対抗し、
非常に苦戦しましたが、
2度とも神風が吹いて撃退し、
その後足利尊氏が
鎌倉幕府を倒して
室町幕府を起こすまで、
鎌倉時代が続きました。
ただ、当時日本で一番力のある
北条がなぜ将軍でないのか?
皆さんもそう思いませんか?
考察① 朝廷に遠慮した
承久の乱以前であれば、
朝廷の権威は
揺るぎなきものでしたから、
朝廷に遠慮したでしょう。
でも、承久の乱で、
後鳥羽上皇を島流しに
してるぐらいですから、
朝廷との力関係は
逆転していて、
朝廷に征夷大将軍にして
欲しいと言えば、
朝廷も嫌だと言えない状況で
あったと思います。
なぜ、将軍になることを
選ばなかったのか?
考察②北条は2番手戦略を選んだ
北条執権家は
代々賢く2番手戦略を受け継いで
長きの鎌倉時代をおさめたことになります。
当時の武士には階級があったとのことです。
Aグループは
京都の朝廷と連関を持ち、
官職を与えられていた上級武士。
Bグループは
一所懸命タイプ。
自分の土地を守ることに
注力していて、
京都との連関を失っていき、
官職を得ていない在地武士たち。
Aグループ:
源氏や平氏などの上級な家柄で、
将軍になることが出来た
家柄になります。
つまりBグループの人たちが
「主人」として認めることが
できたのです。
「賢い」北条は、
将軍への道を歩まなかった
北条はどんなに実力があっても、
そもそもBグループなんです。
Aグループに入れてーって言っても、
そもそも明確な
AグループBグループが
あるわけでもありません。
しかし、武士の中では
明確に階級があります。
仮に北条が将軍になると
宣言して、
朝廷も認めたとします。
関東の武士たちは
従うでしょうが、
面従腹背
俺たちと同じレベルの
北条が将軍になって、
自分の主人になることは、
顔では従うが、
腹は、背信するでしょう。
それが予測できたので、
「賢い」北条氏は将軍への
道を歩まなかったのでしょう。
位階も恣四位どまり。
一流貴族を意味する
三位以上には昇ろうと
しなかったとのことです。
極端な例ですが、
秀吉は農民出身で、
出身は武士ではありません。
ですから、秀吉が天下を取った
後も認めないと言って
歯向かった大名もいます。
その代表が、
くしくも小田原の北条です。
鎌倉時代の北条の血が騒いだ
のでしょうか、
秀吉に従わずに滅ぼされました。
秀吉がいくら関白だ!
といっても、所詮農民だろ?
従えるか!と北条は
思ったのでしょう。
鎌倉時代の北条は、
このような見えざる階級に
対し、無理せず2番手戦略を
貫いたということになります。
コンサルタントは何番手戦略?
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コンサルタントの
ビジネスはといえば、
1番でも2番でもなく、
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コンサルタントはそれぞれ
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