中国大返し・・・
信長討たれたという
一報を備中高松城攻めの
最中に聞いた秀吉が、
即座に毛利と和睦し、
信じられないスピードで取って返し、
山崎の合戦で明智光秀を討ちました。
中国大返しは、今回の「どうする家康」
ではまったく描かれてませんが、
例えば大河ドラマの「軍師官兵衛」では、
秀吉が、颯爽と中国を引き返してゆく様を
痛快に描いています。
この時の秀吉は、
万人を引き付ける魅力にあふれた時期で
あったと思います。
秀吉の評価は、前半と後半で全く変わります。
天下を取るまでの上り坂を
駆け上がる前半の秀吉は、陽気で痛快で楽しい。
天下を取った後の下り坂を
転げ落ちる後半の秀吉は、
陰気で不快で恐怖心を抱かせる。
秀吉ほど、いい時と悪い時のイメージの差が
歴史の偉人はなかなかいないと思います。
歴史の偉人で秀吉の人気はいつもも上位です。
その理由は、
農民から天下人になったという、
立身出世したという庶民のあこがれ
ということもあると思いますが、
秀吉が好きという人は、
天下を取るまでの秀吉が好きと
思っている人が多いのではないでしょうか。
天下を取った後の秀吉は、
好きではないが、それを差し引いても、
秀吉が好きと思っているのではないでしょうか。
では、この前半と後半の境目はどこでしょうか。
これは、明らかに天下統一し、
天下人になってからです。
まさに、権力は人間を変えるのです。
古今東西、権力を握った途端に最悪な人間に
代わることは歴史に枚挙にいとまがありません。
秀吉が天下人という頂点に立って
なぜ人がかわってしまったか?
それは、権力を掴んで放したくない人間には
猜疑心がどうしても出てきます。
特に秀頼が出来てからは、
秀頼になんとか天下を引き継ぎたいという
強い思いが判断を狂わせています。
農民出身の秀吉は、
家康のような古参の家臣を
持っていませんでしたので、
家族、縁者を大切にしました。
その代表は弟:豊臣秀長。
秀吉は、秀長を信頼し、
頼りにしました。
秀吉に唯一意見が言えた人物と
言われています。
秀長が秀吉より長生きしたら、
豊臣政権は、秀頼に引きつげたかもしれません。
一方、甥の豊臣秀次は、
関白を秀吉から関白を譲られましたが、
秀頼が生まれて、
切腹をさせられたとのことです。
秀長が存命であれば、
秀次も生きながらえたかもしれません。
秀吉は、天下人になってから
人の意見が効けなくなり、
秀頼が産まれてから、
秀頼が天下人を引き継げるように
することしか考えないようになり、
周りはイエスマンだけとなってしまいました。
歴史のもしは、考えるのも面白いものです。
もし、信長が討たれずに、
織田幕府が出来て、
代々織田家が家督を継ぐようになったら、
秀吉は、徳川幕府の本多正信のように、
知略に富んだ名参謀になり、
織田幕府になくてはならない重鎮に
なったかもしれません
そのときの秀吉が、
ギラギラとした野心は引っ込めて、
No.2に徹したら、秀吉個人としては、
幸せな人生を歩めたかもしれません。
ただ、秀吉の気持ちが抑えられたか
どうかはわかりませんが。
ビジネスの世界でも、
TOPに立たない方がよかったのに
という人がいます。
この人がTOPになったばっかりに
伝統ある企業が傾くことがよくあります。
特にTOPが長く居座っていいことは
あまりないように思います。
カリスマ経営者が最大のリスクという
会社も多くありますからね。