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定年起業を歴史に学ぶ⑩武田勝頼の判断、情報不測の戦い

長篠・設楽原の戦い・・・

織田信長の策略

 

「どうする家康」も

三方ヶ原に続いての山場です。

戦国最強の武田騎馬軍団が、

信長の鉄砲隊の前に蹴散らされ、

武田軍団の中でも中心的な猛将の

山県昌景も討たれました。

 

この信長の鉄砲隊の三段打ち

(三段打ちではなかったとの説もあります)

が成り立つには、

武田騎馬軍団に突撃してもらわなくてはなりません。

なぜ、武田騎馬軍団は、

正面突破を実行したのか・・・・。

 

勝頼は、家康の配下の酒井忠次率いる部隊が、

鳶ヶ巣山砦を落とし、背後を突かれる形となり、

きつつき戦法で、前に押し出されたことも

要因としては大きいのですが、

鳶ヶ巣山砦を取られて挟み撃ちの状況に

なってはいるものの、

まだ撤収は出来る状況でした。

その時は山県昌景はじめ、

武田軍の幹部は撤退を主張しています。

結局、勝頼は撤収を選ばず、

正面突破の道を選びました。

 

この判断をした勝頼の気持ちを推測してみます。

 

●信玄を越えたかった

山県昌景

「信玄公は、十分な勝ち目なき戦は

決してなさいませんでした」

勝頼

「その通りじゃ。

だから武田信玄は天下を獲れなかった。

手堅い勝利を百重ねようが、

一の神業には及ばぬ」

カリスマの父信玄を超えることと、

信長、家康が目の前にいる状況で、

武田騎馬軍団で、神業のような戦いが

出来れば、勝てる可能性が

あるのではないかと思ったのでしょうか。

 

●勝頼には情報が足りなかった

勝頼の信玄を越えたいという

気持ちはよくわかります。

しかし、この時の勝頼には、

織田・徳川連合軍に正面突破する

選択をしないための情報が

足りなかったのではないかと思っています。

勝頼には、正面突破が無謀であるという

情報がなかったためにこのような

判断をしたのではないでしょうか。

その情報とは

 

●織田・徳川連合軍が鉄砲隊による集団戦を仕掛けてくること

この情報は入っていないかもしれません。

三千丁の鉄砲を信長が保有していることを

過小評価していたし、

鉄砲隊を交代で撃たせる

火縄銃の弱点の天下までの

時間を改善した対応を見抜けなかった。

 

●鉄砲の弾薬の量を信長が大量に持っていたこと

当時の信長は、

堺を支配下に置き、

鉄砲生産を一手に握っていたとともに、

弾薬も一手に握っていたとのことです。

この頃の鉄砲の玉は、

鉛が使用され、

火薬の硝石も含めて

海外からの輸入品の為、

堺の商人を握っている信長は、

潤沢に鉄砲も弾薬も

入手できたと思われます。

そして、信長は、

弾薬の輸入材料を独占し、

規制をかけたために、

畿内の堺より遠い、

武田の本拠地の東国甲斐には、

弾薬を作る材料が入らなかったと

言われています。

当時の武田軍は

1,000丁程度の鉄砲は持っており、

かなりの鉄砲は持っていても、

弾薬がなく、使えずに、

武田騎馬隊に頼らざるを

得なかったことが考えられます。

信長の勝因の中の一つに、

弾薬の不足を心配することなく、

鉄砲で攻撃を仕掛けることが

出来たということがあげられます。

 

信長は、戦う前の準備を周到に行い、

勝つべくして買った。

一方で勝頼は、

神業のような戦いが出来れば勝てるという、

一種の賭けのような判断に

なってしまったのではと思われます。

 

この敗戦により、

武田は一気に滅亡の道を下ることになります。

このとき、弱腰の将と言われるかもしれないが、

一旦引いて体制を整えることができたならば、

大きな損失を被ることもなく、

再度、織田・徳川への決戦に

臨めたのではと思います。

 

信玄は、上杉謙信との川中島の戦いを

五回もやっています。

致命的になる前に引いて

何度も戦ったのだと思います。

この戦い方を

「だから武田信玄は天下を獲れなかった」

と勝頼が言ったとすれば、

勝頼は若かった、

経験が足りなかったと言えるのかもしれません。

 

私たちビジネスパーソンも

決断しなければならない

時期があると思います。

その際は、極力賭けの要素を排除し、

計算できる状況にし、

うまくいかなかったとしても、

致命傷にならないような考え方が

必要であると思います。

私たちは、戦国武将のように

命を取られることはありませんが、

取り巻く状況を常には把握し、

決断の時に、

決断の根拠を持てるような

情報を持っておきたいですよね。

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ナレッジコンサルティング
プロフィール 🔶大学卒業後、東証一部上場企業に就職。その後親族の経営している会社に入社。33歳の時、取締役としてその会社の倒産を経験。同族企業としての弱点が招いた倒産であったと自覚する。倒産後の従業員救済のために新会社を設立し、再度、今までの顧客からの継続受注を勝ち取ることに成功し、多くの従業員の雇用を確保できることとなった。その後サラリーマンに転職し、中堅企業の会社役員となり、経営企画及び営業を管掌する取締役として、48億円の売り上げを250億円の売り上げまで拡大させた。 ●新規開拓営業代行のための経営コンサルタント ●同族企業の社長継承のための経営コンサルタント ●経営者の寄り添い、指針になる経営コンサルタント ●新入社員のコストで導入できる社外取締役 ●定年起業コンサルタント