服部半蔵が出てきました。
家康とこんな関係だったのか・・・
と思いました。
「どうする家康」いろんな人が出てきました。
こんにちは
定年起業コンサルタントのtomoshinオフィスです。
服部半蔵の最も輝かしい活躍と言えば、
「神君伊賀越え」の活躍でしょう。
「神君伊賀越え」とは?
神君とは、もちろん家康のことです。
江戸時代には、神となりました。
伊賀越えとは?
本能寺の変ですべてが変わった
ここで本能寺の変からなんです。
ある日突然、
織田信長が明智光秀に
討たれたとの知らせが
家康に入りました。
その時の家康は、
堺で遊興の旅をしており、
のんびりムードだったと思います。
なぜ堺で遊興かいうと、
数日前に織田信長に
長篠の戦で武田を信長・家康連合で
打ち破った慰労のために京に招かれて
接待を受けて、
その流れで堺見物を
信長からの接待の流れで、
堺に滞在しておりました。
その時の日本は信長の天下統一
一歩手前で、
日本各地で最終の詰めの
決戦が行われる直前でした。
北陸は、柴田勝家
中国は羽柴秀吉
四国、織田信孝
関東は、滝川一益
が詰めている状況で、
信長が抑えている近畿は
比較的安定しているので、
信長は家康に
「ゆっくり堺でも見物してみたら?」
と招待したのでしょう。
その頃中国攻め中の秀吉は、
毛利に対して勝負が
つけられると判断し、
信長に出陣を請うて
「信長様のおかげで
毛利に勝利することが出来ました」
とするために出陣を促し、
その最中に京の本能寺に宿泊し、
そして本能寺の変に
あったという状況です。
本能寺の変の直前は、
嵐の前の静けさという状況でしょうか。
織田軍団の強さが天下統一
目の前という
戦勝ムードが漂っていたのでしょう。
そこで、ゆっくり
堺見物を楽しんでいた家康でした。
そこに青天のへきれき、
大激震・・・
日本という国の中で敵なし
絶対権力者
盤石な男・・・
その信長が
突然いなくなった・・・・
この時の驚き・・・・
このことを聞いた秀吉は、
人目もはばからず
泣いたといいます。
そのあとにあの有名な
黒田官兵衛のささやきから、
中国大返しにつながります。
柴田勝家、織田信孝、滝川一益も
あと一歩で攻略出来ている状況
から撤退に追い込まれています。
絶体絶命の「神君伊賀越え」
さて、その時の家康はといえば、
ほんの少数の家来を従えただけの
丸腰状態だったということです。
それだけ、その当時の
信長の治めている畿内が
安定していたということでしょう。
あの!信長がいなくなった・・・・
天と地がひっくり返った・・・・
家康はその時相当狼狽したとのことです。
そして、わずかな手勢で岡崎まで引き返す・・・
このことがどれだけ危険なことか。
信長の統治が効かない
混沌の世界に一気になってしまった。
家康の首を取れば、
大きな手柄と考えるものも多くいる。
その中で、わずかな手勢で
岡崎まで帰る。
途中で切腹すると家康が言ったほどのピンチ。
本当に命がけの行軍となりました。
その内容は、「どうづる家康」の
本編を待つこととして、
岡崎まで帰る「神君伊賀越え」を
助けたのが、服部半蔵。
やっと出て来ました。
服部半蔵は、
桶狭間のすぐあとには、
家康の配下ではなかったようです。
家康は、今川に捉えられている
妻の瀬名を助けることを
服部半蔵に頼んだことになります。
この瀬名救出のミッションは
家康の家臣ではムリ!
忍びという分野で力を
借りたことになります。
家康は服部半蔵とJV
われわれコンサルタントも、
全方位が得意分野ではありません。
ここの分野は誰にも
負けないという自負はあっても、
個々で苦手な分野がある
というのは、よくあることなのです。
ここで頼りになるのが、服部半蔵・・・・
我々にとっての服部半蔵が、
JV(ジョイントベンチャー)
の仲間なのです。
ここ困ってるから、
助けて・・・、ということで、
私の代わりに成果を出してくれます。
いつの世も服部半蔵は心強いです。
そして、目指すは、
定年後は一人社長で、現在の年収を超える!!
年収1,000万円を稼ぐ!!
今後もブログ発信をしてゆきます。お気軽に下記お問い合わせから、ご意見を聞かせていただけましたら、幸いです。
これからもよろしくお願いします。