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定年起業を歴史に学ぶ⑧家康は「時を味方につけた」

長篠・設楽原の戦いが近づいています。

 

三方ヶ原に続いて、

武田との決戦となります。

三方ヶ原と長篠・設楽原の違いは?

 

大きな違いは二つ

①武田の総大将の違い

三方ヶ原:武田信玄

長篠・設楽原:武田勝頼

 

②対する徳川方の体制の違い

三方ヶ原:徳川単独

長篠・設楽原:織田・徳川連合軍

 

歴史を知ってる私たちは、

長篠・設楽原は、織田・徳川連合軍が、

武田騎馬隊を

三段構えの鉄砲隊によって

撃破する・・・。

織田・徳川連合軍快勝!!

ってイメージですよね。

結果だけを見れば、快勝!!

と見えるかもしれませんが、

薄氷を踏む勝利だったと言えます。

何がこの長篠・設楽原の戦いの

勝利の原因なのでしょうか。

 

①武田の総大将の違い

三方ヶ原:武田信玄

長篠・設楽原:武田勝頼

信玄が存命であれば、

長篠・設楽原の戦いは

そもそも起こっていませんし、

すでに京に上る途中で、

信長と死闘を行っていたでしょう。

 

武田勝頼は、

凡庸と描かれることが

多かったのですが、

後の研究で決して

凡庸でなかったとしています。

勝頼は、まずは徳川家康を

ターゲットにして、

各地の城を落としながら

長篠城まで来たことになります。

この時の武田軍は、

信玄こそいませんが、

戦力は温残され、

徳川方の守りの城は

多く落とされています。

 

よって、長篠・設楽原の戦いまでは、

信玄、勝頼の差は大きくなく、

強いていえば、

信玄の死を隠した三年間の時が

過ぎたことが大きかったと

言えると思います。

 

②対する徳川方の体制の違い

三方ヶ原:徳川単独

長篠・設楽原:織田・徳川連合軍

まさにここの違いが

決定的な差になると思います。

織田・徳川連合軍が、

信長の秘策と言われている

鉄砲隊の三段打ちです。

この鉄砲隊の三段打ちは、

現在では本当は出来て

なかったと考えられていて、

三段式に入れ替わって組織だって

攻撃したのではないとの

史観になってきています。

ただ三段式ではなかったとしても、

この長篠・設楽原が、

鉄砲が集団で使われた

初めての戦いであり、

今まで無敵を誇っていた

武田騎馬軍団の戦い方が

通用しなかったことも

事実として重要だと思います。

 

結局、徳川と武田の運命

を分けたことはなにかというと・・・・・

三年の月日ということになります。

 

この三年の月日がなければ、

鉄砲隊の編成も出来ておらず、

信玄のいない武田でも、

無敵の武田騎馬軍団が十分通用して、

織田・徳川連合軍を撃破することは、

想像できると思います。

 

家康は「時を味方につけた」

といってもいいかもしれません。

当時の家康は目の前のことを

必死にやっただけですが、

この「空白の三年」がなければ、

長篠・設楽原の戦いでの、

織田・家康連合軍の勝利は

なかった可能性が高いと思います。

 

私たちのビジネスにおいても、

時を味方にできると時流に

乗ってビジネスが伸びる

ことがあります。

ただ、この時を味方につけるとは

意識してなかなかできる

ことではありません。

われわれビジネスパーソンにとっては、

目の前のことに

一生懸命であることは必要です。

そして、さらに先の時流を

見通すことも心がけて、

時を味方につけることも必要ですね。

ABOUT ME
ナレッジコンサルティング
プロフィール 🔶大学卒業後、東証一部上場企業に就職。その後親族の経営している会社に入社。33歳の時、取締役としてその会社の倒産を経験。同族企業としての弱点が招いた倒産であったと自覚する。倒産後の従業員救済のために新会社を設立し、再度、今までの顧客からの継続受注を勝ち取ることに成功し、多くの従業員の雇用を確保できることとなった。その後サラリーマンに転職し、中堅企業の会社役員となり、経営企画及び営業を管掌する取締役として、48億円の売り上げを250億円の売り上げまで拡大させた。 ●新規開拓営業代行のための経営コンサルタント ●同族企業の社長継承のための経営コンサルタント ●経営者の寄り添い、指針になる経営コンサルタント ●新入社員のコストで導入できる社外取締役 ●定年起業コンサルタント